寺山修司氏と九條今日子氏の二人を偲び、多くの人々が献花

 

5月4日、三沢市寺山修司記念館周辺の顕彰文学碑前で『修司忌』が行われました。

 

三沢市で多感な少年時代を過ごし、文学や芸術など幅広い分野で活躍した寺山修司。47歳の若さで亡くなった氏を偲び、命日であるこの日に開催されているこの修司忌には毎年、全国から多くの人々が訪れています。しかし、今回は、より悲しみの深いものとなりました。寺山修司の元妻であり、寺山修司記念館の名誉館長でもあった九條今日子氏が4月30日に急逝。突然の訃報に動揺しながらも集まった関係者やファンたちに、同館の佐々木館長は「今日は九條さんも偲んでお花をあげていただければと思います」と呼び掛けました。文学碑に花を手向け、静かに目を閉じ手を合わせる参列者たち。それぞれに心の中で、寺山修司氏と九條今日子氏へ語りかけていたのでしょう。この日、1,200人を超える人々が集まり、二人に思いをはせていました。

その後、青森大学の学生が寺山修司氏の第一作品集『われに五月を』の中の作品を、舞踏家・福士正一氏とコラボレーションしながら朗読。途中、作品に登場する女性の名前を自分が好きな(好きだった)女性に置き換えて朗読する場面では、参列者とともに参加した佐々木館長が、亡くなった九條今日子氏の本名である「映子」の名をあてはめ、思いを込めて寺山修司氏の作品を読上げていました。

 

九條 今日子(本名:寺山映子)氏

1935年生まれ。九條映子の名で舞台デビューを果たし、青春スターとして活躍。1963年 に寺山修司と出会い結婚。1967年、寺山修司、横尾忠則らと共に「演劇実験室◉天井棧敷」を創立し劇団の初演『青森県のせむし男』を製作。1970年に寺山修司と離婚後も仕事をサポートし続け、82年の最終公演『レミング:壁抜け男』まで全舞台の製作を担当。また、カンヌ映画祭コンペティション出品作品『田園に死す』(1974年)、『さらば箱舟』(1984年)などの映画プロデューサーも務める。1983年に寺山修司が亡くなった後は、1997年に創られた三沢市寺山修司記念館の設立に力を注ぎ、寺山作品の著作権を管理するほか、全国各地で講演を行う。株式会社テラヤマ・ワールドの共同代表取締役。三沢市寺山修司記念館名誉館長。三沢市観光大使。