手紙で知る<ことばのひとー寺山修司>の青春文学

7月28日、寺山修司記念館が開館15周年記念として開催する企画展の第2弾『帰ってきた寺山修司』展が始まりました。

 

かつて「百年たったら 帰っておいで 百年たてば その意味わかる」と言葉を残し、登場した時代が早すぎたために当時の社会には全てを理解されず、現在でも「寺山修司のことを我々はまだ百分の一しか知らない」(九條今日子氏談)と語られる寺山修司。彼の文学の原点といわれる三沢に建つ寺山修司記念館と、彼が旗揚げした演劇実験室「天井棧敷」と縁深い世田谷文学館を会場に、没後30年を来年迎える節目に開催されるこの企画展は、寺山修司が書いた書簡を通してその青春時代を再検証し、創作の原点でもある文学的側面を探るものです。

 

 

寺山修司記念館での開催内容は前期と後期で異なり、前期は大きく3つのコーナーで紹介。

『生い立ち』のコーナーでは、文学への意識が芽生えた寺山修司の中学・高校時代や、全国に仲間を募った同人誌「牧羊神」立ち上げ当時の資料を展示。『青春時代の書簡』コーナーでは、その後に牧羊神で共に活動する山形健次郎氏と松井牧歌氏、三沢を離れてからも母のように慕った中野トクさんへ宛てた手紙約120点を展示しています。中でも寺山修司が松井牧歌氏に宛てた手紙類の公開は今回が初めてで、青森から上京した寺山修司に松井氏が初めて会ったときの様子や氏が感じた印象を細かに綴った日記なども展示。最後の『寺山修司へのオマージュ』のコーナーには、生前の寺山修司と交流があった歌人・詩人・俳人からのメッセージ約50点が壁1面に飾られています。

 

 

寺山修司記念館と世田谷文学館が書簡の周囲に展示したのは、書簡の内容を見やすく抜粋した「言葉のパネル」。また、子どもでも読めるように解説文も2種類用意されており、「今回の展示する寺山修司の青春時代の手紙から、メールやツイッターで言葉を交わす現代の若者に通じる感覚は多いと思います」。そう話す両館のスタッフは寺山修司の残した言葉に対し「100年後の謎解きをするのは、私たちではなく次の世代の子どもたちです。10代の頃の寺山修司の思想を子どもたちに伝えていく中で100年の謎は解けていくのではないでしょうか」と現代の若者と寺山修司の出会いに期待を寄せていました。

 

『帰ってきた寺山修司』展の詳しい開催内容はこちらへ

 

 

 INTERVIEW

 

 

寺山修司記念館 館長

佐々木 英明 さん

「帰ってきた寺山修司」展の開催にあたって

 

開館15周年記念の第2弾となるこの展覧会は、寺山修司の原点に返り、寺山修司の青春時代にスポットを当ててみたいと思い、企画しました。

 

寺山修司が三沢で過ごした数年間は最も多感な時期。父母との関係もあり最も苦しい時期でもあったと思います。しかしその後、より大きな青森のまちに移り住み、それまで出会えなかった文学好きな人々と交わることで、三沢で培ったものが一気に開花していくのです。このことから寺山修司の文学の原点として三沢があり、三沢の地で寺山修司の青春時代を紹介することは大きな意味のあることだと考えています。

 

私は常々、寺山修司の文学は「青春の文学」であると思っています。俳句や短歌などには、実に瑞々しい形で表れています。しかし、それだけではなく、文学を発信していく姿勢が常に若い人たちに向けられていました。自身が18歳の頃はもちろん、年齢を重ねてからも常に、自分が文学者として立とうとした頃と同じ18歳の年代の若者に向けて発信していました。このことからも、作品だけに限らず、作品を発信していく姿勢からも「青春文学」といえる部分があるのではないか、私はそう思います。

 

また、今回の展示を企画するにあたって寺山修司が3人に宛てた手紙を読むにつれ、寺山修司は日本の「手紙文学」というジャンルの開拓者だったのではないかと感じました。古くは平安時代の土佐日記など、日本には伝統的に脈々と続き確立する日記文学というものがあると思います。しかし、手紙文学というものは、なかなか無かったのではないでしょうか。寺山修司はもの凄い量の手紙をさまざまな人に向けて出しています。意識的かつ戦術的に手紙を書いていた、展示をみているとそう思わされるのです。

 

この手紙から、皆さんはいろいろなことを思い、また発見されるのではないでしょうか。ぜひ、ご覧いただきたいと思います。