姉妹都市 その前に・・・

斗南藩と廣澤安任

 

 1871年(明治4年)、廃藩置県が行われ、藩制の廃止に伴い、青森県が誕生しました。これに深く関わったのが旧会津藩士であった斗南藩小参事の廣澤安任と言われています。明治維新直後、廣澤安任が二人の英国人を雇用し、三沢市谷地頭(当時は三沢村)に日本初の民間洋式牧場を開設しました。

 当時の様子は「開牧五年紀事」にまとめられ、福沢諭吉が序文を贈り最大限に評価していることが記されています。また、明治天皇が東北を巡幸した際に随行した大久保利通は、廣澤安任の住居兼書斎であった「六十九種草堂」を訪ね、安任を第一級の人間として認め政府への入閣を勧めましたが、「野にあって国家に尽くす」とこの地で開拓に一生を捧げることを告げたと言われます。

 廣澤安任の牧場は、牛馬の品種改良、農工具の開発、飼料・食肉等の酪農製品の生産、販売を行った日本発の近代民間様式牧場と言われ、これにより移入された外国文化は、地元居住者の生活に深く浸透していきました。

 

 航空界の夜明け 

 
 1903年(明治36年)、ライト兄弟が世界初の動力飛行を成功させ、世界で航空機の開発が加速しました。多くのパイロットが長距離飛行を競うなか、1927年(昭和2年)リンドバーグが単独でニューヨーク~パリ間 大西洋無着陸横断飛行を成功させました。
これをきっかけに航空界では太平洋無着陸横断飛行への注目が集まり、1930年から1931年にかけて多くのレースが行われました。

 

 

 

 

 

 

 

 選ばれた淋代海岸

 

 一寒村に過ぎなかった当市の淋代海岸が太平洋横断飛行の起点として世界中から注目された理由は次のことが考えられます。  

  • 粘土と砂鉄が混じり合い地盤が固い
  • 起伏がほとんど無い
  • 細谷側~淋代側間の2,000メートルを超える砂浜の陸地
  • 日本本土の東端に位置し、北米大陸までの最短コース

 

 

 

 淋代海岸から太平洋横断に挑戦した記録

 

 1930年から1932年にかけて、5回もの太平洋無着陸横断飛行の挑戦が行われましたが、このうち成功したのは4回目の挑戦者であるアメリカ人パイロットのクライド・パングボーンとヒュー・ハーンドンでした。このことがきっかけで、50年後、三沢市とウェナッチ市は姉妹都市を締結することとなります。パングボーンとハンドーンの偉業達成の翌年、日本人の手でも成功させたいと3名の日本人パイロットが挑戦しましたが、色丹島上空で行方不明となり残念な結果となりました。
今から80年以上も前、エンジンが一つしかない小さな機体で広大な太平洋を横断しようと勇敢に挑んだパイロット達の偉業を偲ばずにはいられません。

 第1回太平洋無着陸横断飛行

1930年9月14日 タコマ市号のハロルド・ブロムリーとハロルド・ゲッティによる挑戦
結果:機体故障により下北半島東通村尻労に不時着

第2回太平洋無着陸横断飛行

1931年5月31日 パシフィック号(タコマ市号の改名)のトーマス・アッシュ中尉による挑戦
結果:離陸できずに断念

第3回太平洋無着陸横断飛行

1931年9月8日 クラシナマッジ号(タコマ市号の改名)のセシル・アレン、ドン・モイルによる挑戦
結果:出発後カムチャッカ東北端の無人島に不時着、ロシア船に救助される

 ☆第4回太平洋無着陸横断飛行

1931年10月4日 ミス・ビードル号のクライド・パングボーン、ヒュー・ハーンドンによる挑戦            
結果:成功!! 41時間10分かけ、ワシントン州ウェナッチへ着陸 

第5回太平洋無着陸横断飛行

1932年9月24日 第三報知日米号の本間清、馬場英一郎、井下知義による挑戦
結果:途中消息を絶ち行方不明となる