三沢市の史跡・文化財

 

   1.寺屋敷のツキの木  
   2.木崎の牧
   3.浜見のエノキ
   4.三川目の「お化粧漁場」
   5.野口貝塚

   6.南山戸長村役場

   7.浜三沢の道祖神
   8.五川目の大砲場跡
   9.大木群
 10.谷地頭のモウソウ竹林
 11.御巡見道
 12.マテ小屋
 13.金刀比羅神社津波記念碑(四川目)
 14.旧斗南藩士北山入植地跡
 15.第三報知日米号搭乗員慰霊の碑
 16.報郊義會三番艇遭難の碑
 17.オオバボダイジュ

 

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 1.寺屋敷のツキの木

 

 このツキの木は、高さ24メートル、太さ6.5メートルで、北側にまわれば根元の部分から二つに分かれ、真ん中が空洞になっています。            

 ツキの木が生えている場所は、小川原湖物語に登場する姉妹の父が生活を送ったと言われています。当時の人々が、姉妹の父の冥福を祈るためお堂を立て、「海光山」専念寺と名付け、それ以来この地を「寺屋敷跡」と呼ぶようになりました。

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 2.木崎の牧

             

 江戸時代、三沢に木崎の牧(きざきのまき)という南部藩直営の馬の放牧場があり、広さはほぼ三沢市全域と下田町、六戸町におよぶ広大な牧場で、三沢市歴史民俗資料館には、当時の様子を記した古文書「小比類巻文書(複製)」を展示しています。

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 3.浜見のエノキ

     浜三沢の高台にあり、高さ20メートル、胸高幹回り約5メートルを超える大木があります。樹齢は150年と推定されています。

 地元の人々は、この大木を「古い高見の木」、「浜見のエノキ」と呼んでおり、江戸時代から浜三沢の人々が、四川目、三川目の浜でイワシの地引網が行われる様子を見て、地引網が行われるたび浜三沢の人々が浜に駆けつけて手伝いに出かけたといわれています。

 

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 4.三川目の「お化粧漁場」

 江戸時代に三沢地方を治めていた南部藩は、三川目海岸から八戸市の市川海岸までを、お姫様(南部藩主利済公の五女成姫)のお化粧代をまかなうためにお化粧漁場と称され、ここで採れた魚をすべて南部藩の収入にしていました。砂浜の長い沿岸では、地引網漁がさかんに行われ、イワシが多く水揚げされました。

 現在は、三沢漁港の整備とともに、主にサケ、ヒラメ、イカなどが水揚げされ、12月から3月にかけてホッキ貝漁が盛んに行われています。 

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 5.野口貝塚

                小川原湖の湖岸にある貝塚の一つで、縄文時代の人々の生活や文化を知ることができます。三沢市には、この野口貝塚を含めて、旧石器時代から奈良・平安時代の人々が生活した遺跡が127ヶ所あり、かなり古い時代から人々が生活し、豊かな自然に恵まれていたことが想像されます。

  

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 6.南山戸長役場跡

                 南山は、明治時代に旧斗南藩(旧会津藩)の人々が移り住んでから開けたところで、明治政府が三沢、百石を治めるために役所をおいたところです。戸長役場とは、現在の市役所と同じ役目を果たし、三沢の明治時代を物語る大事な歴史遺産です。 

 

 

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  7.浜三沢の道祖神

 浜三沢のエノキからさほど離れていないところに、道祖神がまつられています。道祖神は旅人の守り神であり、また、他国の人々から自分たちを守ってくれる神でもあります。この道祖神も江戸時代から交通の要所として大事な役目をはたしていました。

 

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 8.五川目の大砲場跡

                

 18世紀末、日本周辺に頻繁に来航するようになった異国船に対し、江戸幕府は海岸線の防備を固めるよう諸藩に御触れを出しました。これに応え南部藩でも各所に海岸防備の施設を整備しましたが、五川目の大砲場もその一つです。

 

 

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 9.大木群

県道170号線を北上し、八幡の集落を過ぎたあたりの道路左側に鬱蒼とした大木群があります。「寺屋敷のツキの木」を含む大木でセンの木、カシワの木などがあります。湿地に近く、土中の水分が豊富であることが大木となった理由の一つと考えられています。

   

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 10.谷地頭のモウソウ竹林

 モウソウ竹林は、岩手県南部まで自生していますが、それより北ではこの三沢市しか見られない竹林です。明治初期に埼玉県より苗を持ってきて植えたものが、寒さに負けず今日まで育ったもので、京都周辺の竹林にも劣らないほどの竹林になりました。

 

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 11.御巡見道

 御巡見道は、旧盛岡、八戸両藩から田名部へ至る道筋の一つで、徳川幕府の巡見使が通った道であったことからこう呼ばれています。各地で測量を行い、日本地図を作った伊能忠敬もこの道を通った可能性もあります。

 

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 12.マテ小屋

 小川原湖の出口付近に杭をさし並べ、横木を渡し、ヒエカラ、ヒノキ、スギの木の皮で葺いた小屋がマテ小屋です。小屋の下の水中に袋口の大きい網をいくつも張り巡らし、川を上り下りするサケ、マス、サヨリ、ワカサギなどを採っていました。現在、マテ漁は行われていませんが、2003年再建されたマテ小屋がその風情を伝えています。

 

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 13.金刀比羅神社津波記念碑(四川目)

 

 昭和8年3月3日夜、三陸沖の地震でおきた津波は、三陸海岸から下北半島一帯を襲い、三川目、四川目に死者、行方不明者39名、負傷者32名の大きな被害をもたらしました。この記念碑には、「地震、海鳴り、ほら津浪」といういましめの言葉が刻み込まれ、津波の襲来を想起し、再び大きな犠牲がないように津波に対する心がまえを語っています。この記念碑は、被害のあった百石、八戸、階上にもあります。

 

 

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 14.旧斗南藩士北山入植地跡     

 北山は、南山と同じく明治6年に旧斗南藩(旧会津藩)の人々が移り住んだところで、当時、50戸の家が建てられました。

 当時、植えられたイチイの木に旧斗南藩士の質実剛健な暮らしぶりが忍ばれます。

 

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 15.第三報知日米号搭乗員慰霊の碑

 昭和6年、世界初の太平洋無着陸横断飛行が二人のアメリカ人パイロットによって成功すると、今度は、日本人の手で成功させようと「第三報知日米号」が淋代海岸から飛び立ちましたが、不運にも行方不明となりました。その後、パイロットたちの勇気と偉業を忍び慰霊碑が建てられました。

 

 

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 16.報郊義會三番艇遭難の碑(ほうこうぎかい)

  明治26年、千島列島の開拓と防備のため、東京から有志たちが五艘の船に乗り、太平洋岸沿いに北に向かいました。しかし、激しい暴風雨に遭い、三番艇十人の乗組員全員が海にのまれ、艇だけが悲しく淋代海岸に流れ着きました。北の領土を守るため命をかけることをものともしなかった有志たちのフロンティア精神と勇気を永く伝えるために慰霊碑が建てられました。

 

 

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 17.オオバボダイジュ

 小川原湖水浴場から野口にかけて連なるオオバボダイジュはマダの木とも呼ばれ、夏には黄色の小花が芳香を漂わせながら咲き誇り、生い茂った葉が涼しい緑陰をつくります。木の皮に木炭を混ぜて煮て、繊維をとり、カタビラ、背負い袋、馬のオモズナなどを作りました。

 昔の人々の生活を物語る木です。

 

 

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