三沢市の歴史

三沢市にある遺跡は、平成25年10月末現在で、米軍基地内も含めて、127ヵ所登録されています。

 

1.旧石器時代~縄文時代
2.弥生時代~古代
3.中世(鎌倉時代~戦国時代)
4.江戸時代
5.明治時代~現代

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 1.旧石器時代~縄文時代

旧石器時代(~約13,000年前)

 青森県に初めて人間の足跡がみられるのは、約15,000年前です。氷河期の終わりのころで、後期旧石器時代といわれています。土器はまだなく、石を様々な形に加工した「石器」が生活の主な道具でした。三沢市では淋代からナイフ形石器が採取され、五川目(6)遺跡からは細石刃(さいせきじん)・細石刃核(さいせきじんかく)が発掘調査によって発見されています。これらの石器や木の道具を駆使して食料となる動物の狩りをして、寒く厳しい氷河期を乗り切ったことでしょう。

ナイフ形石器 細石刃核 細石刃

 

 縄文時代(約15,000年前~約2,300年前)

 縄文時代が始まったのが約15,000年前で、このころには地球規模で温暖化が進み、定住生活ができるようになりました。地面を掘って柱を立て、それに屋根をかける竪穴式(たてあなしき)住居に住み、何軒か集まってムラも作られるようになります。
「縄文」という名前は、土器の表面に縄目の文様(模様)がついていたことからつけられました。初期の土器には縄目はありませんが、総称して縄文時代と呼んでいます。
 縄文時代で欠かせないのが、土器と弓の発明です。旧石器時代から受け継がれてきた石器製作技術によって弓矢の先の矢じりを作ることは簡単なことだったでしょう。土器は、やわらかい粘土が焼くと堅くなるという性質を生かしてさまざまな容器が作られました。
 食料は、生か焼く・蒸すだけだったものが、煮る調理法も確立し、生活が格段に豊かになったと思われます。弓の発明によって食料となる動物の確保が容易になり、さらに、気温の上昇とともに森が大きく豊かになることで、木の実などの食料になる植物も増えました。また、貝塚も14ヵ所発見されていますので、貝や魚などの海産物も食料としていたことがうかがえます。

北日本最古の土偶と貝殻文土器(縄文時代早期中頃)

 小川原湖東岸に所在している根井沼(1)遺跡から約9,000年前の土偶が発見されています。高さ3cmぐらいの小さなものですが、頭と腕が表現されています。板状をしていることから「板状土偶」という総称で呼ばれています。また、土器の表面にフネガイ科などの貝で文様を施した「貝殻文土器」が大量に出土しています。土偶と同時期のもので、県内屈指の出土量を誇ります。

北日本最古の板状土偶
早稲田5類式・6類式土器(縄文時代早期末~前期初頭)

 早稲田(1)貝塚から出土した土器をもとに形式設定されたものです。昭和31年、東洋文化研究所が調査し、5類が早期末、6類が前期初頭に分類されています。早稲田(1)貝塚は、小川原湖東岸に位置している学史的に著名な貝塚です。

早稲田5類式 早稲田6類式
野口貝塚(縄文時代早期、前期、後期、晩期)

 野口貝塚は、早稲田(1)貝塚の南に小谷をはさみ隣接しています。「遮光器土偶」を含めた縄文晩期の工芸的な土器群で構成される「野口コレクション」がよく知られています。貝塚が形成されたのは、前期初頭で、アサリ、ハマグリを主体とした分厚い貝層があります。平成25年6月の調査で、早期中頃(約8,600年前)と思われる貝層が確認されていますので、かなり古くから眼前に広がる内湾(現小川原湖)が食料を得るための重要な場所だったことがうかがえます。

遮光器土偶 

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 2.弥生時代~古代(約2,300年前~西暦1192年)

弥生時代(約2,300年前~西暦300年頃)

 弥生時代の遺跡は、姉沼の東側や海から離れた奥まったところに多く所在しています。古間木(5)遺跡や小山田(2)遺跡から発見された土器の表面に、土器を作るときに粘土に混じったもみの跡が見られます。また、小山田(2)遺跡の弥生時代の住居跡の炉の周辺から炭化した米が約500粒発見されています。この米は遺跡周辺で栽培されていたものか、他から持ち込まれたものかは分かっていません。 

弥生式土器 動物型把手 炭化米
古墳時代~飛鳥時代(300年頃~710年)

 弥生時代に続く古墳時代から飛鳥時代のことは遺跡の発見もなく、よく分かっていません。
 ただ、この時期の土器が発見されています。土器の表面に縄文時代と同じ縄目の文様があり「続縄文土器」と呼ばれ、北海道と強いつながりを示す土器などが三沢市をはじめ、県内各地で見つかっています。

奈良時代・平安時代(710年~1192年)

 この時代、律令政府は、北東北に暮らす人々を「蝦夷(エミシ)」と呼びんだり、「毛人(モウジン)」と記し、「征服されるべき未開・野蛮人」という見方をしていました。しかし、北東北が律令政府の支配がおよんでいないだけで、生活そのものは支配がおよんでいる地域とさほど変わっていません。阿弖流為(アテルイ)、坂上田村麻呂や文屋綿麻呂などはこの時期の登場人物です。
 平安時代に入ると、三沢市を含め、青森県全域で遺跡数が急激に増加し、南東北以南から集団移住があったことをうかがわせます。坂上田村麻呂や文室綿麻呂らによる蝦夷討伐・平定が関係していると思われます。

緑釉陶器(りょくゆうとうき)

 平畑(1)遺跡の平安時代の住居跡から現在の京都府亀岡市にある9世紀後半の篠窯で作られた高級食器「緑釉陶器」の皿や椀などが出土しています。住居跡の土層観察から10世紀初めころに捨てられたのが分かっていますので、使っていたのはそれより前ということになります。遺跡周辺にかなりの有力者がいたことをうかがわせます。あるいは、平安京から来た貴族が住んでいたかもしれません。このことを裏付けると考えられるものとして遺跡の近くからは円墳と同じ円形周構墓も見つかっています。玉世姫・勝世姫が登場する小川原湖伝説(西暦672頃が舞台となっている物語)とからめ、ロマンをかき立てられます。

緑釉陶器(表面) 緑釉陶器(裏面) 緑釉陶器(側面)

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 3.中世(鎌倉時代~戦国時代)

鎌倉時代~戦国時代(1192年~1600年)

 源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉幕府が始まると関東から多くの武士が送り込まれました。現在の下北・南部地方は、糠部郡(ぬかのぶ・ぬかのべ)と呼ばれ、不毛の大地であったものの、馬の飼育には条件が良く、古くから名馬の産地でありました。幕府は、馬を育てるのに優れた腕を持つ南部氏や工藤氏の一族を地頭代として当地方に送り込みました。

 八戸や六戸といった「戸(へ)」のつく地名は、南部氏や工藤氏が古くから九つの「戸」を4つの門に分けたといわれています。

 南門は一戸と二戸、西門は三戸と四戸と五戸、北門は六戸と七戸、東門は八戸と九戸で、それぞれの門で働く人たちは互いに競争してよい馬づくりに励みました。

 鎌倉幕府が倒れると後醍醐天皇による建武の新政(1334年)が始まります。南部師行が陸奥国司の代官となり、糠部郡根城(八戸市)に入り、三沢の地域は南部氏の領地となります。この頃には、木崎野をはじめ糠部郡では馬産が盛んに行われました。 

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 4.江戸時代

江戸時代(1600年~1868年) 

  三沢の地名、木崎(きざき)が歴史上に現れます。三沢の地域は、南部藩領でした。広さは、南北7里余(28km)、東西3里余(12km)

 寛永  7年(1630年)藩主令で再興(母馬30頭)
 寛永16年(1639年)南部家の家臣、下田舘主の下田治太夫が牧を返上(三沢のほとんどは下田家800石の領地)

木崎野牧図


 藩主は、小比類巻掃部助(こひるいまきかもんのすけ)を野守に任命しました。小比類巻一族は、現在の三沢の浜三沢(三沢村)に移住し、木崎野牧は南部藩直営の牧場となりました。
 小比類巻家は、寛永18年ころから約230年間「木崎野」における五戸代官所との連絡や農業、漁業凶作など地域全般の事柄にあたり、詳細に記録された小比類巻文書が貴重な資料となっています。

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 5.明治時代~現代

明治・大正時代(1868年~1926年)

(1)戊辰戦争の敗戦(1869年)
 盛岡藩は、新政府軍に全面降伏し、盛岡藩領であった三沢の地域、木崎野の内、一部が廃止され藩営牧場も廃止となりました。
 現在の三沢は七戸藩の一部になり、230年間にわたる藩営牧場に携わっていた人々の生活は大きく変化することになりました。
 また、会津藩も解体され、明治3年に南部藩の一部であった、上北郡、下北郡、三戸郡、岩手県二戸郡に三万石を与えられ斗南藩となりました。
 明治4年までの廃藩置県後は、現在の三沢に多くの斗南藩士の入植者が移住して来ました。これらの人々は、現在の北山、南山に住み開拓にあたりました。

(2)廣澤安任(1830-1891) 
 元会津藩士廣澤安任は、明治5年5月谷地頭地区に近代洋式牧場「開牧社」を開設しました。英国人のマキノンとルセーを雇い、主に牛の飼育を目的として、プラウやハローといった近代的な農機具を用いて西洋式の牧畜が行われました。

廣澤安任

 
(3)百石村からの分離独立
 明治14年9月19日百石村からの分離独立が認められ三沢村が誕生しました。明治22年4月1日町村制の施行により三沢村と天ヶ森村が統合され新しい三沢村が発足しました。

(4)古間木駅開業
 明治27年(1894年)古間木駅が開業。古間木地区は、軟弱な土地で鉄道を通すために、松や杉のイカダを沈めたり、砂を運ぶなどの大工事の末、鉄道が建設されました。このことで、これまで農業と漁業が中心であった三沢村に、古間木駅を中心とした商業が発展していくことになります。

(5)三陸地震津波発生
 明治29年()6月15日、太平洋岸に大津波が発生。死者131名

(6)大凶作
 大正2年(1913年)ヤマセと暴風雨により収穫ゼロに見舞われました。
 多くの村民が出稼ぎに北海道の漁場に向かったものの不漁に見舞われました。こうしたなか、三沢村の村民は基本財産を造成し、三沢信用生産組合をはじめ3つの産業組合を設立するなど村政の基盤を確立していきました。

昭和時代(1926年~1989年)

(1)太平洋無着陸横断飛行
 昭和6年(1931年)10月4日三沢淋代海岸を離陸したミスビードル号は41時間10分、約8,000kmの太平洋を飛び、アメリカウエナッチに10月6日7時に着陸しました。

                    

(2)昭和8年(1933年)昭和三陸地震津波 死者27名

(3)三沢海軍飛行場
 昭和14年9月~昭和18年10月 滑走路1400m×2本、1540m×1本の三角形の飛行場が作られました。昭和20年には、米軍機による2度にわたる空襲を受けました。

(4)米軍三沢基地

 昭和20年9月の無条件降伏後、米軍ワイルドキャット部隊が進駐し、米軍のための飛行場建設が行われ、現在の三沢基地へと変貌 していきました。基地の建設は、昭和21年7月から昭和23年12月まで、延べ人員280万人といわれる労働者が動員され、全国各地から三沢に多くの会社、労働者が集まりました。

正面ゲート

 

 (5)三沢村の人口増加       

年 表

人 口          

備        考

昭和15年

9,884人

戦前 三沢村

昭和21年

11,370人

戦後 基地建設着手

昭和22年

20,315人

 

昭和23年2月11日

23,027人

六戸村、下田村、浦野舘村の一部を合併して大三沢町になる。  

昭和33年9月  1日

35,911人

三沢市となる。

 

(6)三沢大火 昭和41年1月11日中央通り商店街から出火。風速20mを越す強風に煽られ燃え広がり、450戸828世帯、95,040平方メートル焼失。損害額15億6560万円。

(7)十勝沖地震発生 昭和43年5月16日十勝沖地震発生、死者1名、負傷者62名、全壊74戸、半壊676戸、損害額 約53億円。

平成・令和時代(1989年~)

年  表

事        由

平成 元年  5月

平成  3年10月

 

平成  5年  4月

平成  7年10月

平成  8年  2月

平成  8年  9月

平成  8年10月

平成  8年12月

平成  9年  4月

平成  9年  7月

平成13年  7月

平成13年  8月

平成14年  4月

平成15年  2月

平成15年  8月

平成17年11月

平成19年  7月

平成20年  9月

平成22年11月

第1回アメリカンデー開催

太平洋無着陸横断飛行60周年、国際姉妹都市締結10周年式典

国際交流のまち推進プロジェクトモデル都市指定(全国10団体)

市民の森温泉浴場オープン

斗南藩記念観光村オープン

三沢アイスアリーナ落成

三沢市食肉処理センター移転完成

コミュニティマーケット「ミスビードルドーム」完成

屋内温水プール落成

三沢市ケーブルテレビジョン開局

寺山修司記念館オープン

南山多目的ふれあい広場屋外運動場落成

三沢市と東ウエナッチ市姉妹都市締結

三沢漁港が第2種から第3種(全国漁船利用)に格上げ

青森冬季アジア大会三沢アイスアリーナで一部競技開催

県立航空科学館オープン

仏沼湿地がラムサール条約登録

道の駅みさわ「くれ馬ぱーく」オープン

市制施行50周年記念式典

市立三沢病院移転新築

 

三沢飛行場周辺の集団移転

 三沢飛行場周辺騒音区域は、障害の程度によって第1種から第3種に区分されていおり、第2種の区域については、土地の買い入れ及び移転補償を権利者の希望により国が行います。第3種区域内は、緑地帯等の緩衝地帯とされています。

 三沢市では、これまで区域の住民が集団で移転できるよう移転先地の整備を国の補助を受けて実施してきました。

転元地

時 期

戸数

面積

移転先地

四川目地区

S63~H8

251戸

33.7ha

大津地区

浜三沢地区

H16~H17

  31戸

4.7ha

園沢地区

岡三沢地区

H12

  15戸

0.5ha

南山地区

五川目地区

H16~H22

163戸

24.7ha

前平地区

天ヶ森砂森地区

H18~H22

  92戸

21.1ha

庭構地区(新森地区)

合  計

 

552戸

84.7ha

 

 

平成時代の主な冷害と災害
年 表 事        由

平成 3年  9月

三沢市農作物不順天候対策本部設置
台風19号 死者2名、被害総額6億円

平成 5年  9月

三沢市農作物冷害対策本部設置

平成 6年12月

三陸はるか沖地震発生

平成13年 9月

台風15号大雨古間木川増水85世帯避難勧告
9・11同時多発テロ発生、基地脅威警戒態勢D(最高レベル)

平成15年 9月

三沢市農作物冷害対策本部設置

平成23年 3月

東日本大震災(大津波)発生 死者2名負傷者1名
全壊96軒、半壊29軒、被害額78億円

 

三沢の学校の歴史

No.

学 校 名

開校年月日

閉校年月日

備     考

1

古間木小学校

明治38年10月14日

 ー  
2

上久保小学校

昭和  2年  4月  1日

 ー  
3

木崎野小学校

昭和55年  4月  1日

 ー  
4

岡三沢小学校

大正  5月  4月  1日

 ー  
5

三沢小学校

平成13年  1月15日

 ー  
旧三沢小学校 明治10年11月  8日 平成13年  1月14日 移転、新築
6 三川目小学校 明治17年  5月17日  ー  
7

おおぞら小学校

平成18年  4月  1日  ー

六川目、織笠、

谷地頭、根井を統合

8 淋代小学校 明治17年  4月11日

平成22年  3月31日 

三沢小に統合
9

六川目小学校 

明治16年  8月11日 

平成18年  3月31日 

 
10 織笠小学校 明治16年  8月11日

平成18年  3月31日

 
11

谷地頭小学校 

明治14年  8月  7日

平成18年  3月31日 

 
12

根井小学校 

明治14年  6月16日

平成18年  3月31日 

 
13

天ヶ森小中学校 

大正10年12月  1日 平成14年  3月31日  
14 第一中学校

昭和24年  8月25日 

 ー  
15

第二中学校

平成10年  1月16日

 ー  
旧第二中学校 昭和27年  6月24日

平成10年  1月15日

移転、新築
16 第三中学校 昭和28年  6月  1日  ー H24.11月移転新築
17

第五中学校 

昭和37年  4月  1日 

 ー  
18 堀口中学校 昭和62年  4月  5日  ー  

 平成25年3月現在三沢市には、小学校7校、中学校5校があります。              

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